職場の上司から
「今日は早く帰ってね」
その言葉は、善意でありながら、時に心をざわつかせる。
最近、半日勤務が続いたことで、少しだけいつもと違う日常を味わえた。
夕食を家族と囲む。何気ない会話を交わす。
そんな当たり前の時間が、まるで非日常のように感じられて──「ああ、こういうことだったんだ」と思った。
一方で、やるべき仕事はまだまだある。
残業代をもらっているわけでもなく、ただ“現場の未来”のために動いているだけなのに、
「まだいるの?」「早く帰って」と声をかけられるたび、胸のどこかがモヤっとする。
今回は、そんな“働き方と時間のバランス”について、
半日勤務を通じて感じたことを素直に綴ってみようと思う。
「“早く帰って”に感じた違和感──働くことの本質ってなんだろう」
6連勤だった先週。
とはいえ、3日目から6日目は半日勤務。
定時は13時。だけど、なんだかんだ片付けや調整もあって、結局16時くらいまでは職場にいた。
それでも、「午後の時間が自由になる」という感覚は、心を軽くしてくれた。
特別なことをしたわけじゃない。
いつも通り自転車でのんびり帰り、家に着いたら洗濯物を取り込んで風呂掃除、そして夕食を家族と囲んだだけ。
でもその「何もない時間」にこそ、ずっと欲しかった“整い”があった。
仕事と生活の境界線が、少しだけくっきり見えたような気がしたんだ。
身体が休まったというよりは、心がゆるんだ感じ。
この“整い”があるから、翌日の仕事も頑張れる。
そんなことを改めて実感した、ささやかな半日勤務だった。
「半日勤務で得た“家族との時間”──非日常が心を整えてくれた」
「早く帰ってね」「いつまでいるの?」
そう言われるたびに感じる、“ありがたさ”と“ちょっとしたストレス”。
声をかけてくれる上司の気持ちは分かる。
きっと「働きすぎないように」という配慮であり、
現場スタッフに無言のプレッシャーを与えたくないという思いもあるはずだ。
でも──僕にとっては、まだ終わっていない“やるべき仕事”がある。
仕事を誰かに押しつけるつもりもなく、
他のスタッフに残業を求めるわけでもなく、
自分が残業代を求めているわけでもなく、
ただ「今のうちに仕組みを整えておきたい」と思っているだけなのに。
「仕事はもっと効率的に」
「無駄をなくして、みんながラクになるように」
そんな未来のために、自分なりに考え、動いている。
だからこそ、「早く帰って」の一言に引っかかってしまう。
働き方改革やブラック労働という言葉が一人歩きしている今、
「時間内に収めること」ばかりが強調されすぎているようにも思う。
時間を削ることで、“質”も“意志”も失っていないだろうか。
そんな問いが、心の中にそっと残った。
「改革の形だけじゃない、“選べる働き方”が必要だと思う」
僕は自分の仕事を、自己犠牲だと思ったことはない。
時間をかけて仕組みを作ったり、試行錯誤しながら業務を見直したり──
それは未来の自分や、現場の誰かの「ラク」を増やすための投資のようなもの。
もちろん、仕事が終わらないまま休日に入ることもあるし、
「そこまでしなくてもいい」と言われることもある。
でも、それを“やらされている”感覚でやったことは一度もない。
むしろ、整えることは“選んでいる”こと。
よりよく働くために、自分の意思で積み上げていることだ。
働く時間の長さではなく、働く時間の「質」。
その質を高めるために、準備や整理に時間をかけるのはむしろ前向きな行動だと思っている。
誰かに「無駄」と思われてもいい。
自分にとって意味があるなら、それはきっと価値あることだ。
まとめ:休日を整えると、仕事の“質”が変わる
今回あらためて感じたのは、
“休日の時間をどう使うか”が、そのまま“平日の働き方”に影響するということ。
長時間の休みや豪華なレジャーじゃなくてもいい。
早めに帰れる日があるだけで、心に余白が生まれる。
その余白こそが、翌日の視野を広げてくれて、働き方そのものを変えてくれるのだと思う。
働き方改革って、制度や時間の話ばかりされがちだけど、
本当に大事なのは「自分の感覚を整える」ことなんじゃないか──そんな風にも感じている。
これからも、自分の感覚を頼りに、
休み方と働き方、どちらも整えていこうと思う。
…こんなふうに、自分の時間を少しでも整えることで、仕事への向き合い方にも変化が生まれる。
ただ──整えていくのは、自分の働き方だけではない。
現場には、いろんな“正しさ”を持った人たちがいる。
「人の数だけ正義がある」──だから、改善は一筋縄じゃいかない。
次回は、そんな価値観のズレから生まれる現場の“すれ違い”と、それでも諦めずに歩み寄ろうとした話を綴ってみたい。